ときめき part 2 |
モロッコ 2005年11月 |
|
日本人特にシニア層は、モロッコといえば、映画「カサブランカ」を連想する場合が多いのではないだろうか。 何はともあれ、地理的にも意識的にも遠い国であることには違いなかろう。 モロッコは、国王を元首とする立憲君主制である。 国王は国内に22もの広大な宮殿を持ち、電力事業なども支配しているといわれ、われわれの眼から見ると、 権力と富が集中しすぎている感があるが、国民の人気は高いという。 国土面積は、日本の約1.2倍。人口は2900万人弱である。 人口構成は、アラブ人6割強、ベルベル人3割強、といわれる。 国教は、イスラム教である。 モロッコは、アフリカ大陸の北西部に位置し、ジブラルタル海峡を挟み、スペインとの距離は14Kmにすぎない。 北東から南西に向けて、標高4000mのアトラス山脈が、中央部を斜めに走り、 国土を地理的に2分する形になっている。 山脈の北西側は、地中海と大西洋に面し、肥沃な平地が拓けている。 山脈の南東側は、サハラ砂漠につづく乾燥地帯となっている。 山脈を挟んで、風土に天国と地獄ほどの違いがある。 |
|
マラケシュ(モロッコ) ジャマ・エル・フナ広場 周りを城壁で囲まれた旧市街は、メディナと呼ばれる。 マラケシュのメディナの中心ジャマ・エル・フナ広場は、屋台、スーク(市)、大道芸人、鳴り物、乗り物、動物、人間などが織り成す混沌の世界である。 マラケシュ市場の肉屋 マラケシュの騎馬ショウ 観光客向けに、ディナーショーと称して、古の砂漠での騎馬戦が再現される。 勇壮で、われわれには曲芸としか思えない巧みな騎乗ぶりに、日本からの長旅の疲れも忘れてしまった。 ![]() ![]() |
|
サハラ砂漠(モロッコ) 砂漠の夜明け エルフードのホテルを早朝五時、暗闇の中をランドクルーザーで出発し、砂礫の荒野を1時間ほど疾走して、サハラ砂漠に到着し、毛布にくるまって夜明けを待った。 ラクダに揺られて ラクダに乗って、砂丘の頂上に登り、尊厳な砂漠の日の出を見ることができた。 ![]() ![]() |
|
ラバト(モロッコ) ウダイヤのカスバ(城砦) 首都ラバトにあるウダイヤのカスバ(城砦)は、大西洋に面した景勝の地にある。 カスバのティータイム 城砦内にある白とブルーの2色で彩られた家並みの続く路地は、特に印象的であった。 ![]() ![]() |
|
アイト・ベン・ハッドゥのクサル(モロッコ) 映画「アラビアのロレンス」のロケ地にもなったアイト・ベン・八ッドゥ。 クサル(要塞化された村)は、日干し煉瓦造りの建物がかなり痛んではいたが、今でもベルベル人の数家族がここで暮らしているとのことであった。 クサルの頂点では、平地から眺めたときには予想だにしなかった烈風が吹き荒れていて、二本の足ではジット立っていられなかった。 |
|
フェズのメディナ(モロッコ) フェズのメディナ、フェズ・エル・バリは、1000年以上前に造られ、国内で最も古いとされる。 メディナの中の革染色工場。 メディナの中の通路、人間と荷を負った驢馬がやっと擦れ違えるほどの狭い通路が網の目のように張り巡らされ、世界最大の迷宮といわれる。 「ガイドなしで入ったら絶対出てこられない」と言うガイドもいるそうだが、それが真実味をおびてくる。 |
|
トドラ峡谷(モロッコ) ワルサザートからエルフードまでの砂漠の道をカスバ街道と言う。 ドドラ峡谷は、その街道の中間点にある。崖の高さは200メートル以上もあり、崖と崖の間は狭いところでは、20メートル程しかない。 この峡谷には、クライマーが、ヨーロッパからも練習にたくさん訪れるそうで、この日も、絶壁に取り付いているクライマーの姿が散見された。 |
|
ディネフル オアシス(モロッコ) 河の流域にオアシスがベルト上に広がっていた。オアシスにはナツメヤシの樹が茂り、畑作も盛んであった。 グリーンベルトの両側、やや高い場所に住居が作られる構成になっている。 |
|
メクネス(モロッコ) エディム広場とマンスール門 メクネスは、17世紀に約半世紀ほど首都であった古都である。 エディム広場に面して立つマンスール門は北アフリカで最も美しい門といわれている。 ![]() ![]() |
|
アトラス山脈と砂漠(モロッコ) 右は、砂漠から見たアトラス山脈 遊牧民ベルベル人のテント 砂漠を走っていると、遊牧民ベルベル人のテントにときどき出会う。テントが密集していることはほとんどない。家族単位で遊牧しているようだ。われわれは、こんな暮らしに何日耐えられるであろうか。 |
|
中街は、瀋陽有数の繁華街で、清時代に奉天城があった地域の中心地にある。ここは、瀋陽でも最も古いエリアといわれる。 しかし、同仁堂など中国古来の店も散見されるが、近代的でハイカラな店が競い合う新しい街に生まれ変わっていた。 最近、東京にも進出している老辺餃子館の本店もこの中街にあり、店内は大賑わいであった。 瀋陽故宮は、清朝が、北京に遷都するまで、清朝の王宮であった。清朝の太祖ヌルハチと太宗ホンタイジはここに住んだ。 北京の故宮に比べれば、規模は小さいが、それでも20余の庭園と、90余の建物があるといわれる。 建物の装飾物の彩りも鮮やかで保存状態がきわめて良好に感じられる。至る所でライラックの大樹が満開の花房を微風に靡かせ、高貴な香りを放っていた。 北稜(昭稜)は、清の太宗ホンタイジの陵墓である。瀋陽市の中心部からみて北方に位置するので、北稜といわれる。 8年の歳月をかけて、1651年に完成、その後も康熙帝、乾隆帝などにより、改修が行はれたと伝えられる。 現在では、陵墓全体が公園化され、園内に札幌市と川崎市から贈られた芳秀園などもある。 北稜の敷地面積は332万uといわれ、東京ドームが71個スッポリ入ってしまう。その規模の壮大さは、まさに中国である。 |
|
大連賓館からみた中山広場 中山広場から主要道路が放射状に展開する大連の街造りは、1898年租借したロシアによって始められた。満州帝国時代に、この広場に面して建てられた旧大和ホテル、旧大連市役所、旧横浜正金銀行、旧関東逓信局などの建物は、現在もそれぞれ使われていた。 大連駅ホーム 瀋陽北駅ゆき特快列車、2階建ての列車の中は、通路の両側が4人がけのコンパートメントに仕切られて、その中央テーブルが備え付けられていた。レールは国際標準軌で、日本の在来線より広い、振動も少なく乗り心地がよい。大連駅から瀋陽北駅まで、400KM 4時間の旅は快適であった。 大連テレビ塔は、市内最大の労働公園の南側に聳える緑山に立っている。ライトアップされたテレビ塔付近は、大連の夜景を見るために訪れる人々が後を絶たない。夜空には、上弦の月が金色に輝く。 |
|
外灘から見た浦東夜景 上海は、近年経済特区として目覚く発展し、中国一の経済力を誇っている。 |
|
西湖の夕暮れ この夕暮れは、西湖が昔と少しも変わらぬ面影を留めていると、つい錯覚させられてしまう魔力を秘めている。 杭州近郊の農村風景 車窓から見る限り、杭州近郊の農村には、古い農家は残っていない。 |
|
19世紀ごろ、アラブの商人たちが、このアラブストリート界隈に住みつき、商業の街としてさかえてきた。 ![]() ![]() |
シンガポールのチャイナタウンは、再開発が進み、美しく、清潔ではあるけれども、なんとなく味気ない。 しかし、そこに住む人たちは、昔から続いている正月の行事を大事に守っていこうとしていた.。 2005年2月 |
ナイトサハリはシンガポール動物園の隣にある。 |
シンガポールからコーズウェイを通って、マレーシアに入ると、そこはジョホール・バルの街だ。 シンガポールとはまた違った雰囲気のイスラムの世界である。 このアブ・バカール・モスクはマレーシアで一番美しいモスクと言われている。 2005年2月 |
|
|